日々瞑想

日々瞑想というタイトルをつけて、文章専用のページを作ってみた。

昔からタイトルを付けるのが苦手で、絵もタイトルの無いものばかりだったんだけど。

 

言いたい事は絵の中に全て表現してあって、私の感覚では全て表現し終わったから完成であり、完成したのであればそれを人に向けて言いたいというふうにあまりならかった。

 

そんなあまりに一方的な態度の中でついにさみしくなり、「わかってほしい」となった時のみ、言葉を添えていた。(最近は、タイトルと言葉を添える事が増えている。)

 

自分の感覚だけに意識を向けて生きて来たから、外側に向く事が酷く苦手だし、外側に向くと、ドバッと自分の中に膨大な情報が流れてきて苦しくなるか、逆に押し付けになってしまう感じがして苦しくなるから、ただ自分の中の安泰、それだけの為に絵を描いてきた。

 

たまに展示を行って溜まっていく「わかってほしい」を消化しながら。

 

絵は完結の連続であっても、表現の内容の根本はどれも殆ど同じで、完結して振り出しに戻る事を繰り返してきたのだ、というのに、最近になって気がついた。

そりゃあ、内側ばかり見ていたんだから当たり前なんだけど、改めて気づいた時には失笑した。
もう少し外側に向いてみようと思って、文章を書くことにした。
日頃から文章は書いても、自分の為の心理描写の端的なメモや、感じたことのストレートな表現ばかりで詳しく説明することはそういえばあまりなかったから、誰かに宛てることを想像して書いてみようと思う。
 
といっても、こんな精神的な内容を好む人は少ないだろうし、自分の中の当たり前の感覚を説明するにはやはり言葉は難しく、繊細な感覚は言葉にした途端嘘になってしまうこともあり、少々意味不明に仕上がってしまうかもしれないけど。

 

 

日々の自分が、自分の全てを作っていく。全て、とは、死まで、ということなんだけど。

日々の選択、行動、手にした物、食べたもの、飲んだもの、喉が渇いて自動販売機で飲み物を買って飲んだことすら、自分を作っていく。

 

全ての人がその創造過程の中にいると、私は思ってる。

 

感じる私たちは歌い、踊り、語り、絵を描きます。

ただ自然と、そうなのだと思う。


目立たない存在であろうと、有名な存在であろうと、全ての人がかけがえ無い特別な創作者であり、わたしは私の創作物を押し付ける事なく、絵を描き、文章を書き、考えを述べていたい。

それがいつか、誰かの中に希望を生むことを夢見て。

 


日々瞑想。