調和

私が精神の深い試行錯誤の中にいた頃、極端な苦しみ(陰)と極端な幸福(陽)の間を、行ったり来たりしていた。

長い時間をかけてその反復を繰り返していくうちに、段々とその波が収まって、ある時ニュートラルになった。

常に激しく反復していた思考と感情が、穏やかに一定に保たれているその感覚は、本当に心地が良くて、ただ生きているだけ、呼吸を繰り返すだけで満たされた。

 

ニュートラルな状態からは、すごく広い世界が見えた。

今までは、苦しみ(陰)の中にいる時にはそれにとらわれて幸福(陽)に背を向けていたし、幸福の中にいる時には苦しみに背を向けていたから、その真ん中に立った時、そこから世界を見た時に、全てはひとつだったんだと感じた。

完全な陰と陽は、対立するのではなく寧ろ寄り添っていた。

 

生と死、善と悪、陰と陽の数は実は常に一定で、その何の過不足も無い世界の中に自分が在るのだから、自分や周りに起こる全ての事が必要で、必然で当たり前に思えた。

又、戦争からはじまり、人間の行いの全てが、人間としての性なのだと思った。

 

その気づきが、自分にとってあまりにも尊く、今まで考えて来たこと、出来事の全てに感謝が沸き起こった。

 

 

人は世界を通して自分を見てる。

世界に全てがあって、自分の中にも全てがあるのだから、世界で起こっていることは自分の中にも起こってる。

 

自分がニュートラルでない時、陰と陽どちらかに振れている時、世界はその反対に振れているように見える。

 

たとえば自分が善であろうとすれば、周りには悪が際立って見えたり、愛したいと願えば、愛が足りないものが寄ってきたりすることがある。

 

不平等に見える世界はそうやってバランスがとられて、全てのことは調和してるんだと思う。

 

 

自分が小さい頃抱えていたものも、そこから来ていたように思う。

自分が持っているものに気が付くと、それを持っていない人にも気が付く。相手も同じく、自分が持っていないものに気が付いて持ってる人をみつける。

そしてそこに「渡したい」「受け取りたい」という均一の欲が生じると、ふたりは寄り添った状態でニュートラルになる。

でも小さい時はそれを手渡す手段がわからなかったから、「渡したい」という欲が膨らんでしまい、バランスを崩してしまった。

周りと接すると自分ばかり持ちすぎている気がして、自分の感受性が受け取るものに押しつぶされ、次第に苦しくなり周囲に心を開けなくなっていった。

 

実際は、少しのことで良かったのだ。

愛があふれそうなときには、その心を込めて物を作ったり。

そういう行いで伝えていけば、ちゃんと受け取ってくれる人がいて、保たれる。

方法は人それぞれだけど、自分の場合は、今はそれが絵を描くこと、服を作ること、ごはんを作ることだと思う。

 

いまの時代、欲が深い社会の中で、ニュートラルでいることはほんとに難しいと思う。

だからこそ、あの時初めて実感した感動を思い出し、感謝して、いつでも立ち返れると分かっていることが大切だなと思う。